項劉記・豪傑帳

ここは項羽と劉邦の時代の豪傑を紹介するコーナーです。
西楚の覇王を名乗った項羽と400年にも渡る漢帝国を作った劉邦が争った時代、三国志
と同じように多くの豪傑・英雄が戦を彩っていました。彼らを少しですが紹介していくつもりです。

・勿論この中に入っていない人物が豪傑ではないというわけではありません。
私がそう思った武将だということをご了承下さい(五十音順)。

漢(劉邦)  西楚(項羽)  秦(贏政)


立場武将名読み方立場・所有物・特徴
君主
劉邦
(高祖)
りゅうほう 漢400年の礎を築いた人物。沛の農家に生まれ、生来から
か不思議な魅力を持ち、若い頃から味方を多く得ていた。
 最初は項羽の味方になり張良を得て秦を打ち破るが、後に西
楚の覇王となった項羽と激闘を繰り広げることとなった。劉邦は
戦えば必ず負けた人物であったが、彼の性格・人徳により集ま
った張良・蕭何・韓信ら多くの優秀な部下を動かしてついに垓
下の戦いで項羽を打ち破り天下を手に入れた。
 天下をとった後には功臣を次々と粛清したり、匈奴と戦い大
敗を喫し屈辱的な和睦結ぶこととなったりした。
英布
(黥布)
えいふ
(げいふ)
 六(りく)という地方の出身。軽犯罪を犯して顔に刺青を入れら
れたため黥布というあだ名がついた。秦に反抗して項羽につい
て秦を滅ぼすため活躍して王に封じられた。
 劉邦と項羽が争いあうようになって後、項羽と不仲になり、劉
邦軍の説得により劉邦軍に寝返って劉邦軍の勝利に貢献し
た。
 最後には劉邦の妻呂后に彭越の首を贈られたことをきっかけ
に粛清を恐れ反乱。戦いに敗れてだまし討ちに遭い殺されてし
まった。
腕力では無類の強さを誇ったといわれた英雄であり王であった
が、粗暴で知略に欠けていたという。
王陵おうりょう
灌嬰かんえい 元は商人であったが軍事的才能があり、別働隊となった韓信
に付き従い各地で転戦。韓信を補佐しながら勝利を何度も手に
する。劉邦軍の功臣の一人で項羽を倒した後、車騎将軍になっ
た。劉邦死後の呂氏の時代も呂氏打倒後も位を落とすことが
無く処世術を心得ていたと思われる。呂氏討伐後は丞相にまで
なっている
 また、一人で多くの山賊を討ち取ったという話もあり、洛川の
灌嬰と呼ばれたとか。
周勃しゅうぼつ
曹参そうしん 沛で蕭何の部下であったが、劉邦に従い各地を転戦。武将と
して各地を転戦。項羽軍の龍且など多くの敵を撃破した。
 簫何とはうまが合わなかったようだが、お互いに認め合ってい
たようなところもあったとか。後に丞相となった。
樊[口會]はんかい 劉邦と同じ地方の出身。劉邦の護衛役を務めることも多く、生
涯に渡り劉邦を「鴻門の会」などの窮地から救った。
挙兵してからは首級を176挙げ、敵兵を288人も捕らえ、劉邦
軍では1・2を争う強さであったという。司馬遷の史記でも武功
が書き記されており、無口で無欲で腕力がある彼は劉邦にとっ
て最高のボディーガードであったと言えよう。
彭越ほうえつ 字は仲。キョ野の湖で漁師の顔と盗賊の一味という顔を持っ
ていた。陳勝や項梁が反秦に立ち上がったときに、一度は断っ
たが再び仲間に勧められて旗揚げした。秦を倒すときに劉邦に
協力するが、項羽の論功行賞ではどこにも封ぜられなかった。
 後に斉王田栄が項羽に反旗を翻したときに将軍となり、楚軍
と戦う。56万の兵で攻めた劉邦が項羽に敗れて以降は、漢の
遊軍としてゲリラ戦で項羽を苦しめた(苛立たせた)。
 劉邦と共に項羽を滅ぼして後、彭越は劉邦に梁王に封じられ
たが、さらにその後劉邦の不興を買う。庶民にされて蜀に流さ
れる途中で劉邦の妻呂后に謀られて結局一族皆殺しとされ、
死体は塩辛にされて諸侯に配られたという。
廬綰ろわん 劉邦の幼なじみで、漢統一後に燕王に封じられた。韓王信が
匈奴に投降したのち廬綰は謀叛の疑いをかけられ匈奴の地へ
逃亡。匈奴で劉邦の死後まで生き続ける。(柳生月影さんに教
えて頂きました)



西楚
君主項籍羽
(項羽)
こうう 本名は項籍。字が羽。西楚の覇王で劉邦の好敵手。おそらく
この時代の最強の君主にして万武不当の豪傑。君主であるにも
かかわらず、軍の先頭に立ち愛馬烏騅に乗り敵軍に対して攻
撃をしかけた。その圧倒的な強さは敵兵を恐怖に叩き込んだと
いう。
 激戦の末に秦軍を打ち破り、強引に西楚の覇王を名乗って一
度は天下を手中に収めたが、短気で疑い深い人物であったた
めに味方の心は離れて離反者が相次いだ。ついには劉邦に打
ち破られて垓下の地に立てこもった。項羽はそこで劉邦軍から
聞こえてくる楚の歌を聞き、覚悟を決めて詩を作った。次の朝に
虞姫と別れ、項羽は劉邦軍の囲みを突破して長江まで逃げた
が、最後は自らの剣で命を絶ったのだった。
于英うえい 項羽の挙兵の頃から従っていたが、項羽と劉邦が争いあうこ
とになって後、項羽に従い劉邦軍の韓信と戦うが、韓信率いる
戦車部隊の包囲攻撃により戦死した。
桓楚かんそ 項羽の挙兵の頃から従っていた。数々の戦いに同行し活躍を
したが、最後の垓下の戦いで劉邦郡に囲まれて戦死した。
季布きふ 義に厚い任侠心のある人物として知られる。項羽の挙兵の頃
から従い、軍師となる范増を味方につけるなど戦以外にも多く
の功績を上げた。項羽が討ち取られるまで項羽に従い数々の
戦いで活躍した。項羽が討ち取られて後にやがて許されて漢に
仕えた。「万金を得るより季布の一抱」で有名。
周殷しゅういん 項羽軍の名将で項羽に従い英布とともに戦った。英布が劉邦
についた後も項羽についていたが、最後に劉邦に寝返った。
周蘭しゅうらん
章邯しょうかん 元は秦の名将軍で楚軍を苦しめたが、秦の宰相趙高の暴虐
政治に反抗して項羽軍についた。しかし、項羽が劉邦に降ろうと
相談していた元秦兵20万を大虐殺したために章邯らは秦の人
民の恨みを買った。
 秦滅亡後は項羽に関中を任されたが、韓信率いる劉邦軍をな
めてかかった為に敗北。追い討ちをかけてきた韓信に桃林で敗
れ戦の最中に自殺した。
鍾離昧しょうりまい
(しょうり
ばつ)
 項羽軍の名将。義に厚い武将として知られている。数々の戦
いで勇猛ぶりを発揮し、項羽が討たれるまで項羽とともに戦っ
た。項羽が討たれて後は韓信のもとに身を寄せたが、裏切りに
あって自殺した。
龍且
(竜且)
りゅうしょ 武勇においては鍾離昧に勝るとも劣らず、英布とも打ち合って
ひけをとることがなかったという武将。数々の戦いで活躍して敵
を敗走させるが、韓信が斉に攻め入ったときに韓信の水計(嚢
砂の計)にあって敗れて戦死した。



君主贏政
(政)
(始皇帝)
えいせい 秦の国の第31代国王であり、中国最初の初代皇帝。父は荘
襄王とされてはいるが、実父は権臣の呂不韋である。即位後16
年程で有能な臣下を用いて戦国時代の中国を統一。外国出身
者も重く用いたことも忘れてはいけない。
 統一後、初めて皇帝という称号を置いた。封建制に代わり「郡
県制」を敷き、文字や度量衡・統一貨幣の制度を採用をした。
 しかし、「万里の長城」の建設、「阿房宮」や「驪山陵」の造営を
し、「焚書坑儒」により人民の反発を招いた。不老不死を探させ
たり暗殺未遂事件なども起こったが、東方巡幸中に病で死去し
た。
王翦おうせん 白起亡き後の秦の名将。若くして兵法に長じておりそれにより
始皇帝に仕えた。自分の子の王賁と共に活躍し、韓・魏・趙を滅
ぼして燕の王を敗走させたほどであった。
 その後の楚攻略の時には、贏政が将軍李信の言を入れたた
め一度病と称して引きこもるが、李信敗北後に楚を60万の兵に
より滅亡させた。見事な処世術(始皇帝に恩賞をねだり続けた)
を心得ていたようで、始皇帝の殺意を招かずに天寿を全うした。
猜疑心の強い主を持つと大変である。
王離おうり 王翦の孫で将軍。章邯の部下として趙を攻め、趙を助けに来
た項羽と鉅鹿で戦い、その捕虜となった。
章邯しょうかん 陳勝の将軍である周章が秦に攻めてきたときに、2世皇帝に
驪山の囚人を恩赦し武器を持って戦わせるように進言。彼らを
率いて見事打ち破った。その後は各地で転戦。趙王を撃つなど
の活躍を見せた。
 その後、趙の救援に来た項羽と戦うが敗北。秦の都咸陽に指
示を求めたが、丞相趙高は使者に会わず、密かに章邯らの一
族を捕らえ使者も殺そうとした。一族が殺された章邯は20万も
の兵と共に項羽に降った。
 項羽に下った後は楚の項を参照
扶蘇ふそ 始皇帝の第一皇太子として、素養は十分と言われた人物。し
かし、父である始皇帝の命により万里の長城の守備についた
後、権力の亡者趙高の奸計(既に死去した始皇帝の扶蘇と蒙恬
に死を賜うという内容の詔書を偽造)により父から自害を命ぜら
れた。
蒙恬もうてん 李信の言を贏政が入れたことにより、辞職をした王翦に代わ
り、李信とともに楚に攻め込むが、楚の名将項燕により敗北。そ
の後は王翦に従い天下統一に貢献した。
 統一後は、万里の長城の守備を、父の始皇帝により来た扶蘇
と共にしていたが、趙高の奸計によって扶蘇が自害。そして、蒙
恬も勅命により自害した。


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