漢 |
立場 | 武将名 | 読み方 | 立場・所有物・特徴 |
君主 | 劉邦 (高祖) | りゅうほう | 漢400年の礎を築いた人物。沛の農家に生まれ、生来から か不思議な魅力を持ち、若い頃から味方を多く得ていた。 最初は項羽の味方になり張良を得て秦を打ち破るが、後に西 楚の覇王となった項羽と激闘を繰り広げることとなった。劉邦は 戦えば必ず負けた人物であったが、彼の性格・人徳により集ま った張良・蕭何・韓信ら多くの優秀な部下を動かしてついに垓 下の戦いで項羽を打ち破り天下を手に入れた。 天下をとった後には功臣を次々と粛清したり、匈奴と戦い大 敗を喫し屈辱的な和睦結ぶこととなったりした。 |
| 英布 (黥布) | えいふ (げいふ) | 六(りく)という地方の出身。軽犯罪を犯して顔に刺青を入れら れたため黥布というあだ名がついた。秦に反抗して項羽につい て秦を滅ぼすため活躍して王に封じられた。 劉邦と項羽が争いあうようになって後、項羽と不仲になり、劉 邦軍の説得により劉邦軍に寝返って劉邦軍の勝利に貢献し た。 最後には劉邦の妻呂后に彭越の首を贈られたことをきっかけ に粛清を恐れ反乱。戦いに敗れてだまし討ちに遭い殺されてし まった。 腕力では無類の強さを誇ったといわれた英雄であり王であった が、粗暴で知略に欠けていたという。 |
| 王陵 | おうりょう | |
| 灌嬰 | かんえい | 元は商人であったが軍事的才能があり、別働隊となった韓信 に付き従い各地で転戦。韓信を補佐しながら勝利を何度も手に する。劉邦軍の功臣の一人で項羽を倒した後、車騎将軍になっ た。劉邦死後の呂氏の時代も呂氏打倒後も位を落とすことが 無く処世術を心得ていたと思われる。呂氏討伐後は丞相にまで なっている また、一人で多くの山賊を討ち取ったという話もあり、洛川の 灌嬰と呼ばれたとか。 |
| 周勃 | しゅうぼつ | |
| 曹参 | そうしん | 沛で蕭何の部下であったが、劉邦に従い各地を転戦。武将と して各地を転戦。項羽軍の龍且など多くの敵を撃破した。 簫何とはうまが合わなかったようだが、お互いに認め合ってい たようなところもあったとか。後に丞相となった。 |
| 樊[口會] | はんかい | 劉邦と同じ地方の出身。劉邦の護衛役を務めることも多く、生 涯に渡り劉邦を「鴻門の会」などの窮地から救った。 挙兵してからは首級を176挙げ、敵兵を288人も捕らえ、劉邦 軍では1・2を争う強さであったという。司馬遷の史記でも武功 が書き記されており、無口で無欲で腕力がある彼は劉邦にとっ て最高のボディーガードであったと言えよう。 |
| 彭越 | ほうえつ | 字は仲。キョ野の湖で漁師の顔と盗賊の一味という顔を持っ ていた。陳勝や項梁が反秦に立ち上がったときに、一度は断っ たが再び仲間に勧められて旗揚げした。秦を倒すときに劉邦に 協力するが、項羽の論功行賞ではどこにも封ぜられなかった。 後に斉王田栄が項羽に反旗を翻したときに将軍となり、楚軍 と戦う。56万の兵で攻めた劉邦が項羽に敗れて以降は、漢の 遊軍としてゲリラ戦で項羽を苦しめた(苛立たせた)。 劉邦と共に項羽を滅ぼして後、彭越は劉邦に梁王に封じられ たが、さらにその後劉邦の不興を買う。庶民にされて蜀に流さ れる途中で劉邦の妻呂后に謀られて結局一族皆殺しとされ、 死体は塩辛にされて諸侯に配られたという。 |
| 廬綰 | ろわん | 劉邦の幼なじみで、漢統一後に燕王に封じられた。韓王信が 匈奴に投降したのち廬綰は謀叛の疑いをかけられ匈奴の地へ 逃亡。匈奴で劉邦の死後まで生き続ける。(柳生月影さんに教 えて頂きました) |