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三国志・軍師帳

・ここは三国志軍師(参謀)を紹介するコーナーです。
(宰相や政治家と呼ばれるような人物も入ってます)
・勿論この中に入っていない人物が軍師(参謀)ではないというわけではありません。
私がそう思った武将だということをご了承下さい(五十音順)。
(解説は三国志演義をベースにしています。一部正史ですが、
それとわかるような書き方がしてあると思います。)
(なお、言うまでも無いことですが、太字の人物は君主です。)

<蜀> <魏> <呉> <その他の群雄>


立場
武将名読み方立場・所有物・特徴

君主
劉備玄徳りゅうび
げんとく
豪傑ではないが、三国志を語る上で欠かす事ができ
ない人物。蜀を建国、漢中王となる。桃園の誓いで関
羽・張飛と義兄弟となり、諸葛亮を三顧の礼で軍師に
迎え、三国志を彩る数々の人物が彼の配下となって
活躍する。

関羽雲長
かんう
うんちょう
知勇兼備の猛将。倒した豪傑は数知れず、曹操すら
恐れさせた名将。所有物は「青竜偃月刀」「赤兎馬」。
劉備に徐庶や諸葛亮などの軍師がいなかったときに
は冷静な判断で様々なことを教えていた。(岩田さん
のリクエストです)
姜維伯約きょうい
はくやく
蜀国の最後の英雄と呼ばれた人物。魏の武将のと
き、諸葛亮を敗走させたこともある。その後、蜀軍に
降り、諸葛亮から兵法書(兵法二十四編)を伝授され
魏軍を攻撃する。槍を取れば趙雲や魏延と打ち合う
程の実力を持ち、知勇兼備の武将。
向寵しゅうちょう蜀の将軍であるが、個人的な武力より軍事全体に精
通していた。諸葛亮に「軍中のことは、事の大小と無く
ことごとく彼に諮問せば行陣をして問題が起こること
はないだろう」と推薦されたほどの人物。
蒋[王宛]しょうえん諸葛亮の入蜀の際随行。諸葛亮に、「蒋エンは国家
を背負う大器であり、小県を治めるようなけちな才能
の持ち主ではありません」と評される。諸葛亮に後継
者として推薦された優秀な人物。内政官として才能を
発揮。

諸葛亮孔明
しょかつりょう
 こうめい
言わずと知れた蜀の名軍師。劉備に三顧の礼をもっ
て迎えられた人物で伏龍と呼ばれていた。彼は軍師
であったが、軍事よりも政治の方が得意分野であっ
たとか(これにより、軍師ではなく名宰相(又は政治
家)と言われることも)。最終的には、劉備に後事を託
されて蜀の大黒柱となり、魏の名軍師司馬懿仲達と
何度も戦い、彼に「天下の奇才」と評された。「兵法二
十四編」を所有、連弩など多くの武器を発明。子は諸
葛瞻。彼ほど後世に影響を与えた人物も少ないので
はないだろうか?
徐庶元直じょしょ
げんちょく
親孝行で義に厚い人物として知られ、劉備が新野城
主であったときに劉備の初代軍師となる。曹操軍の
大軍をを少数の兵で打ち破り活躍して将来を期待さ
れるが、徐母を用いた程cの策によって曹操に呼び
寄せられてしまう。もし、諸葛亮・ほう統・徐庶の3人
が揃っていれば、劉備は中国を統一していたかも知
れない。
馬謖幼常ばしょく
ようじょう
南蛮攻めの際、「蛮人の心を掴むべき」といい、諸葛
亮を感心させ、諸葛亮が魏を攻める前に司馬懿の官
職を剥奪させる策を諸葛亮に献じ、将来を期待され
る。しかし、街亭で諸葛亮の言い付けを守らずに、丘
の上に布陣。そのために魏に大敗をし、軍の規律を
守る為に諸葛亮は泣く泣く馬謖を斬った。この「泣い
て馬謖を斬る」の故事は有名。(陳留王さんのリクエ
ストです)
馬良季常ばりょう
きじょう
馬家5人兄弟の中でもっとも優秀だった馬良には眉
に白毛が混ざっていた。このことから「白眉」の比喩
が生まれた。劉備に仕えて以後、荊州南部攻略の献
策をし、関羽の軍師のような立場となる。演技では白
帝城で劉備の死を看取るが、正史では夷陵の戦いで
戦死する。有能な外交官として知られる。(陳留王さ
んのリクエストです)
法正ほうせい元劉璋配下の武将。主に逆らい、劉備に蜀を奪うこと
を勧めた人物。劉備配下となった後、諸葛亮が随行
していない漢中戦では、劉備軍唯一の軍師として黄
忠とタッグを組んで漢中を平定。諸葛亮とは仲が悪か
ったと知られるが、蜀の時代を担える名軍師として期
待された。若くして死に、彼が生きていれば夷陵の敗
戦は無かったと言われる。
[广龍]統
士元
ほうとう
しげん
劉備が蜀を取るときに随行した劉備軍副軍師。軍事
的なことに関しては諸葛亮孔明よりも上と言う人もい
る人物。鳳雛と呼ばれ、水鏡先生に諸葛亮と並び評
された。数々の献策をするが、若くして戦死してしま
い、劉備軍を悲しませた。
李厳正方りげん
せいほう
槍を取ればかなりの実力者、黄忠と引き分ける。軍
事に関しては、諸葛亮をして呉の軍師である陸遜伯
言を抑えられるのは彼だと言わしめた人物。諸葛亮
の死後、自害してしまった。
王平(子均)おうへい
しきん
巴西郡宕渠県の人。最初は魏の曹操に仕えていたが、同僚の徐晃と仲違いしたのを契機に劉備に降った。そして以後は、蜀の武将として仕えるようになる。漢中の地理に詳しく、蜀では重宝された。
字はほとんど書けないという教養は皆無の人物であったが、智勇には秀でていたと言われている




君主
曹操孟徳そうそう
もうとく
三国志の英雄。悪役(又は敵役)として描かれること
が多い人物であるが、三国志を語る上で欠かす事が
できない人物。心酔する名将も数多く、魏を建国した
千年に一人でるかどうかとまで言われた人物。「孟徳
新書」・「い天の剣」・「絶影」・「爪黄飛電」・「玉璽」等
を所有。
郭嘉奉孝かくか
ほうこう
荀ケの推挙によって曹操軍に招かれた短命の名軍
師として知られる。曹操配下でも深謀遠慮に定評が
あった。品行が定まらず何度も弾劾されたが、曹操
の信任も厚く、「もし奉孝が生きていてくれたら、この
ような敗戦(赤壁の戦い)はなかったであろう」と死を
惜しまれた人物。曹操に「わが子房(前漢の張良)な
り」と言われたほどの人物。
賈[言羽]
文和
かくぶんわ(か)最初は曹操の敵として登場し、曹操の配下となるまで
は、曹操を苦しめる。曹操に投降後は、戦術・策略の
両面でますます本領を発揮し、数々の活躍をした。玄
人好みの人物として有名。「その進言に誤りなし」と言
われる。
戯志才ぎしさい多少変わり者であったが策略に秀で、曹操にその才
能を愛されていた人物。190年代前半に若死にして
しまい、曹操は荀ケに代わりの人材を求めたところ、
郭嘉が推挙されたという。

司馬懿仲達
しばい
ちゅうたつ
曹操が丞相になったときに招かれた人物。適切な献
策によって曹操配下の重臣となり、曹操から後事を
託された(しかし、曹操は、司馬懿は必ず国家に害を
及ぼすと語り、彼に心を許していなかった)。諸葛亮
の好敵手として軍事的な才能を発揮、彼と何度も戦
い魏を守りきった。三国を統一した晋王朝の基礎は
彼によって築かれた。
荀ケ文若じゅんいく
ぶんじゃく
若くして「王佐の才」があると評された人物。はじめ袁
紹に仕えていたが、曹操が賢士を集めていると聞き、
荀攸とともに馳せ参じる。曹操に「これぞ我が張子房
(張良)なり」と評され、程c・郭嘉らを推挙する。曹操
軍の行動設定・建国に大いに活躍した。曹操が群雄
から一つ抜け出したのは彼の力による所が大きかっ
たと言われる。曹操軍には珍しい清流派の代表人物
であった。曹操に「わが子房(前漢の張良)なり」と言
われたほどの人物。
荀攸公達じゅんゆう
こうたつ
荀ケの甥で、はじめ袁紹に仕えていたが、曹操が賢
士を集めていると聞き、荀ケとともに馳せ参じる。軍
師に任ぜられ、呂布・袁紹討伐でも数々の献策をし
た。手堅い戦略を立てる参謀として活躍した。正史で
は、叔父の荀ケと違い、曹操との仲は良好だったと
言われる。
鐘会士季しょうかい
しき
幼い頃から有才の士として知られた人物。司馬懿の
子の司馬昭に仕え、参謀として活躍し、彼から前漢の
軍師張良に例えられたことも。しかし、蜀攻めの時に
はケ艾に先を越されケ艾を謀反を理由に捕らえる。
その後、姜維と共に蜀で自立を図るが失敗して姜維
と共に戦死してしまう。
程c仲徳ていいく
ちゅうとく
荀ケの推挙によって曹操軍に招かれた。数々の献策
をし、中でも袁紹を打ち破った十面埋伏の計は有
名。赤壁では、呉軍の火攻め・黄蓋の偽降を見抜い
た。冷静な分析と適切な判断が持ち味の人物(少し
ダーティな策士といった面もあるが)。
陳羣長文ちんぐん
ちょうぶん
曹操配下の重要な頭脳集団の一人。卓越した見識と
厳正な人格で周囲からの尊敬を得ていた。軍略面で
も、司馬懿仲達を感嘆させたほどの人物。彼が建議
した任官制度の九品官人法は有名。
ケ艾士載とうがい
しさい
司馬懿に才能を認められて抜擢。陳羣の子の陳泰に
献策をして認められ、以後、蜀の姜維の好敵手として
彼と何度も戦い、打ち破ることも多かった。蜀攻めの
際には、足止めを食っている鐘会より先に蜀に侵入
し、諸葛亮の子の諸葛瞻を討ち取り、劉禅を降伏さ
せた。
杜預元凱とよ
げんがい
280年、呉討伐の際に大都督となり、晋軍の主力10
万の軍勢を率いて出陣。見事な作戦を実行し、厳し
い軍律を敷くことによって、破竹の勢いで呉の都であ
る建業に入城する。左伝の注釈書を書いたことでも
有名。




君主
孫権仲謀そんけん
ちゅうぼう
三国志の英雄。最初は幾分か頼りない感じもあったよ
うだが、年を経るにつれて英雄として申し分が無いほど
の大人物に成長する。皇帝まで名乗り、呉の国に繁栄
をもたらした。周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜等、軍師の引継ぎ
がうまくなされたことでも有名。
周瑜公瑾しゅうゆ
こうきん
容姿端麗で「美周郎」と呼ばれ、孫権の兄孫策と義兄
弟の契りを結び、呉の美人姉妹である大喬・小喬(周
瑜)をそれぞれ妻とする。孫策死後、孫権に魯粛を推挙
し、曹操が攻めてきたときには、大都督として赤壁の戦
いで曹操を打ち破る(正史では、諸葛亮は矢を集めて
もいないし、風を起こしたわけでもない。周瑜は風の吹
く時期を知っていたとされる)。その後、荊州を占領しよ
うとするが果たせず、天を恨みつつ他界。ちなみに、諸
葛亮より年上である。

柳生月影さんからの情報です正史では天候を読み、
赤壁で火計を成して魏を退ける。(孔明は関与してない
のです)ちなみに曹操は自軍の状況から撤退を決意し
たので戦といえる戦はなかったのですが・・・後に孫権が
帝位についた時に「今の余があるのは周瑜のおかげ
ぞ」と言っています。呉国建国時の大功臣だが、息子た
ちは父の血を引き継がなかったようです。
徐盛承淵じょせい
しょうえん
三国志演技では赤壁の戦いで登場。赤壁・南郡・合肥
の戦いでも活躍。夷陵の戦いでは、最初は陸遜を非難
していたが、彼の考えを聞き心服し、活躍した。曹丕が
陸遜の留守中に攻めてきたときに総大将となり、一夜
にして城を築いて魏軍を動揺させ、丁奉に伏兵をさせて
勝利を得た。その後も陸遜の部将として活躍した。
陸遜伯言りくそん
はくげん
若年の美青年として描かれることが多い人物。関羽攻
めの時には呂蒙に策を授けて呂蒙に認められる。劉備
が攻めてきたときには、孫権は亡き呂蒙の言やカン択
の言に従い陸遜を大都督に任命する。陸遜は劉備軍
を持久戦と火攻めで打ち破り、次いで曹丕軍も撃破す
る。それからも天才的な用兵をみせた。ちなみに、劉備
軍と戦ったとき、彼は30代後半であったとか。
呂蒙子明りょもう
しめい
最初は武人として登場するが、孫権にたしなめられて
後、猛勉強。数々の戦いに出陣し、的確な戦術眼が買
われ、周瑜・魯粛の後に大都督となる。関羽攻めの時
には陸遜に計略を授かり、関羽を油断させて関羽を生
け捕る。文武両道に優れ、人格者として知られる人物。

魯粛子敬
ろしゅく
しけい
周瑜に推挙されて孫権に仕える。長期戦略を孫権に提
示して信頼を得、劉備との同盟の立役者ともなる。親孝
行で人がよく、周囲からの信頼も厚い人物で周瑜死後
に後事を託され、大都督となる。しかし、外交の才能は
残念ながら持ち合わせてなかったと評されることが多
い。




袁紹
君主袁紹本初えんしょう
ほんしょ
曹操と中国北部の覇権を争った群雄。多くの武将と広大
な領土を持っていたが、曹操の前に敗れ去る。
田豊でんほう袁紹の忠臣として、彼に数々の作(策)戦を提示するが、
ほとんど採用されなかった不運の軍師。袁紹が彼の策を
用いていれば曹操は負けていたかも知れないとまで言わ
れた。曹操も田豊が従軍していないと知って喜んだとい
う。


董卓
君主董卓仲穎とうたく
ちゅうえい
後漢を荒らした群雄。帝を勝手に変えたり、遷都を強行
したり、書ききれないほどの悪行をしたが、貂蝉に篭絡さ
れ、義理の子の呂布に殺害される。董卓の死後、ヘソに
火をつけたら3日3晩燃えつづけたという。
李儒りじゅ董卓の女婿で、頭脳として活躍。彼の悪行・栄華の手助
けをした人物。董卓の死後、無道を助けし者として斬首さ
れる。


呂布
君主呂布奉先りょふ
ほうせん
天下無双の豪傑と言われた人物。黄金の鎧を身に纏い、
「方天画戟」を手にし、「赤兎馬」に乗って縦横無人に戦場
を駆け回り、次々と武将を打ち倒した。張飛・関羽を同時
に相手にし、時には曹操軍の猛将5人を同時に相手にし
てもあしらってしまうほどの実力者。裏切りに生きた人物と
言われ、最後は曹操に捕らえられて斬首された。
陳宮公台ちんきゅう
こうだい
一時は曹操の配下となったが、彼の残忍さを嫌い、反曹
操として活躍した人物。呂布に従って後、彼と共に転戦す
るが、献策はほとんど跳ね除けられ、呂布に失望してい
く。最後には呂布と共に曹操に捕らえられる。曹操は彼の
死に臨み、涙を流してこれを見送ったという。



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